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  • 安保問題をSNSで発言していなかった人も、実はいろいろ考えているのではないかと思う件

人間は、簡単に自分の考えを変えることができません。「人の意見を聞き入れる」というのは、人間にとって、もっとも高いレベルのコミュニケーション術だと私は思っています。もし、相手の意見を聞き入れる人が、世の中にたくさんいるのならば、こんなに職場の対人関係で頭を抱えることはないですし、犯罪発生率も、今よりももっと少なくなっていると思います。しかし、現状、これらの問題が解決していないところをみると、やはり、人間という生き物は、自分の意見をとても大切にして、それを守り続けるものなんだと思います。

 そして、この「人の意見を聞き入れる」というのは、「思想」の話になってくると、さらに面倒なことになっていきます。思想は自分自身を構成している、もっとも大切な部分ですから、ここを譲ってしまうと、今までの自分を作り上げてきたものを、すべて修正しなくてはいけなくなります。身近な例で言えば、猫が好きな人に対して、猫のイヤなところを一生懸命、説明するようなものです。猫を好きな人にとったら、とてもイヤな気分になるし、逆に猫を嫌いな人にとっても「なんで、猫なんか好きなんだよ!」と思いながら話すので、こちらも、あまり気分がいいものではなくなってきます。このように、自分の思想というのは、自分自身が「これが正しい」と“完全”に思いこんでしまっている場合は、そう簡単に、変えることはできないものなのです。

 もちろん、これが「どっちかな?」と悩んでいる思想であれば、考えを変える可能性は十分にあると思います。先ほどの猫の話にたとえると、猫と犬、どちらを好きになろうか悩んでいる人に対して、猫を好きになるような話をするのであれば、耳を傾けてくれると思います。つまり、話を聞く相手が「思想を変えよう」「答えを導きだそう」という前向きな姿勢があれば、議論というのは活発になるのです。

 しかし、思想がもうすでに固まっていて、自分の中で答えを出してしまっている問題に対して「その思想は間違っている」「自分の意見が正しいと分からせてやる」という姿勢で話しをするのは、非常に難しいチャレンジになると思います。先述したように、自分の思想を変えるということは、自分の考えを否定することから始めなくてはいけませんから、やはり気分が悪い話になってしまいます。自分を作り上げてきたものを批判されるわけですから、親の悪口を言われたり、子どもの悪口を言われたりするのと似ているかもしれません。だから、余計に、思想に関しての論議は、自分の考えとズレればズレるほど、その意見に耳を傾けなくなってしまい、かたくなに聞き入れない姿勢をとってしまうのだと思います。

 もちろん、中には、確固たる意見を持ちながらも議論を重ねて、前向きに話を転がせていける人もいると思います。しかし、それは残念ながら、いろいろな情報が頭の中にインプットされている、情報交換能力の高い、限られた人だけのような気もします。多くの人が、「情報」よりも「感情」が上回る“思い込み”という状況に陥ってしまい、外からの情報をシャットアウトしてしまうのではないかと思います。

 このように、「人の意見を聞き入れる」ということは、非常に難しいコミュニケーションであることは、多くの人が理解しなくてはいけないことなのかもしれません。相手が「思想が決まっている人なのか?」「まだ思想が固まっていない人なのか?」という状況を、冷静に見極めながら論議しなければ、ただ単に“猫が好きか嫌いか論”になってしまい、不毛な情報交換で終わってしまいます。
 そして、このような論議の難しさを理解している人は、おそらく、声を発しない「サイレントマジョリティー」となって、冷静に状況を見極めているのではないでしょうか。商売にたとえて話をするのであれば、「買ってくれた人の声」よりも、圧倒的に多い「買ってくれなかった人の声」である“沈黙を守るお客さん”のほうが、実は本当の市場の“声”だったりするのです。そう考えれば、今回の安保問題に関しては、思いの外、表面化してこなかった「ちゃんとした意見を持っている人」のほうが、もしかしたら、多かったのではないかと思います。

「もっと政治のことや思想を活発に論議したほうがいい」
 そういう意見も耳にします。私も、今回の安保問題を機に、多くの人が活発にSNSなどを使って、論議するべきだと思います。しかし、先述したように、「人の意見を聞き入れる」というのは、とても難しいことで、自分の意見を強引に押しつけようすると、どうしても言葉がナイフのように鋭くなってしまって、相手を傷つける発言になってしまいます。そこを、文章で上手に切り抜けられるほど、文章が達者な人は素人には多くないと思いますし、思いつきでベラベラと情報発信してしまうようなSNSの場合、誤解を招く可能性が非常に高いので、そう簡単に活発な意見を交わせるほど、日本のSNSの場は平和ではないという思いがあります。
 仮に、本気を出してSNSに自分の思想を持ち込んで乗り込んでしまったら、自分の意見を絶対に聞き入れてくれない攻撃的な人に対して、永遠に平行線の話をしなくてはいけないことは目に見えているし、揚げ足を取られたり、完全に議論の焦点がズレまくっている人と意見を戦わせなくてはいけなくなります。いわゆる「意見を交わすのもバカバカしい相手」だと認識してしまうと、余計に議論をする気持ちを萎えさせてしまい、静観する姿勢を取ってしまう気持ちも理解できますおそらく、その論議に費やした労力と時間と精神的疲労は、計り知れないものがあることは容易に想像がつきます。

 自分の国の政治にムチャクチャ不満がある国民であれば、学校や飲み屋で、政治の話は活発に行われるはずなので、このような政治や思想の話をしても、それなりにうまく話ができる土壌ができているのかもしれません。しかし、日本は、政治や思想に関しては、自由気ままで、のほほんとしてきても、それほど生活に支障をきたす国ではなかったこともあり、そもそも「政治や思想の話を日常会話として行う」ということに、慣れていない国なのかもしれません。
 どちらにせよ、政治や思想に関しては、活発に意見を交わす必要があると思う反面、「人の意見を聞き入れる」ということが、非常に困難な作業であることが分かっている分、思想が固まった人同士が、思想をぶつけ合う論議が、果たして生産的な話がちゃんとできる場になるのかどうか、少し疑問に思ったりしてしまうところがあります。
 このへんに関しては、自分自身、まだ答えがしっかり出ていないところだったりします。中途半端ですみません。「人の意見を聞き入れる」と「人の意見を鵜呑みにする」とは、まったく別の話になりますから、“聞き入れる”の範疇がどこらへんのものまでなのか、非常にわかりにくいことが、私も悩んでいるところだったりします。

 でも、案外、日本はいろいろな情報を自由に取得することができる国なので、論議しなくても、いっぱい悩んで、いっぱい考えて、それなりに自分なりに答えを出している人も多いのではないかと思ったりしています。また、そういうサイレントマジョリティーの人たちは、自分の中で論議そのものがすでに終わっており、腹にスッと落ちて、気持ちが落ちつている人のほうが多いのではないかとも思ったりしています。
 それなのに、「このまま法案が勝手に決まっちゃってもいいのか!」「なんで声をあげないんだ!」とか言われてしまうと、それはそれで、あまり気分はいいものではなかったりします。また、自分とは真逆の意見を、さも世の中の常識のように発言されると、それはそれで「は?」という気持ちにもなってしまいます。事実、私のところにも、「一緒にデモに行こうよ!」とメッセージを送ってきた人が何人かいましたが、正直、あんまり気分のいいものではありませんでした。なぜならば、その法案に対して賛否はすでに自分の中で決まっているし、声を出すことが国を動かすことに直結していることだとは思えないし、自分自身の意見はちゃんと持っているわけですから、それをあえて「考えていない人」「行動を起こさない人」として否定されると、やっぱり不愉快な気持ちになってしまうわけです。私も、本当に声をあげなきゃいけないときは、ちゃんとデモにも行きますし、政治的な発言をするからには、今の職を捨てて、政治家になるぐらいの覚悟をもって、発言をするつもりです。口ばっかりはイヤですから。しかし、今回の安保に関しては、そういう思いには至っていないので、発言もしないし、デモも行ってない・・・というのが現状だったりします。

 それだけ「思想」に関する発言は、非常に重いものであって、人を傷つける可能性があるものなので、ある程度、節度が必要なんだと思います。特にビジネスマンが活用しているFacebookの場合は、仕事とプライベートの両方使っている人が多いので、自由気ままに自分の意見が発信できるメディアではないという現実もあります。たとえ情報発信先を「友達」限定で絞り込んでいたとしても、相手の思想が分からない限り、読みたくもない情報を、読みたくもない人に発信する可能性が1%でもある媒体なのです。極論を言えば、Facebookが一番やっかいで、一番、気むずかしい情報発信ツールなのではないかと思ったりしています。猫が好きな人にたいして、「猫が嫌いだ」という情報を無理矢理読ませる必要はありませんし、読ませたら相手が不愉快にさせるのは明らかですから、やっぱりFacebookは、最初から自由に意見を言い合う場には向いていないのではないかというのが、昔からの自分の考えだったりしています。
 そう考えると、「多くの人に読んでもらう」という情報発信ツールを使う時点で、もうすでに情報発信に“自由”はないことを理解している人が、おそらく、Facebookで安保問題に触れなかった人たちなのではないかと思います。

 しかし、ここで誤解して欲しくないのは、私は決して「Facebookで政治や思想の話をするな」と言っているわけではありません。ただ、Facebookは他のSNSと違って、非常にナーバスなネット媒体な上に、そこで難しい思想についての話をするわけですから、それなりに、むちゃくちゃ考えて発言しなければいけないことなのではないかというのが、私の考えだったりします。
 反対に、相手の思想を平気で攻撃するような発言を、平気でFacebookで繰り広げる人の発言を見ていると「話し合いだけで世界平和なんて、やっぱり無理なんじゃね?」と思ったりしてしまいます。もしかしたら、不用意なことをSNSで平気で発言する人のほうが、いざ戦争に巻き込まれたときに、非常に危うい存在になるのではないか、とも思ったりしています(私のような奴なんですけどね)。

 あと、補足ですが、Facebookは「友達」で結ばれているコミュニティなので、どうしても、自分の意見に同意してくれる人が多くなる現象があります。そのため、書き込んだ内容に「いいね!」ボタンが多かったり、同意する意見が多いと「みんなそう思っているんだな」と勘違いしやすくなったりします。だから、Facebookで自分の思想を発信すればするほど、殻に閉じこもった発言になりやすいところがあります。ブログやメルマガよりも、Facebookのほうが油断して、発言が過激化していく理由は、そういう事情があるのかもしれません。

 さて、いろいろ書かせてもらいましたが、今回の安保法案の問題で私が気づいたことは、「人の思想を変えるのは難しい」という現実を改めて思い知ったことです。安保問題が決着するに至るまで、日が経つにつれて過激な意見が増えていったような気もします。自分の意見を言うのもバカバカしいぐらいの内容も見受けられて、なおさら「意見する気持ちすら萎えるなー」という気持ちになると、逆に、多くの人が自分の意見が固まりつつあって、それを否定されるのがイヤだから、余計に意見が過激になっていったのではないかと思います。

 そう考えると、正解がないと言われ続けていた安保問題も、ようやく決定直前ぐらいにきて、日本国民の中で、それぞれに「答え」を導き出し始めていたのではないかと思います。だから、余計に「思想」の問題が「感情」に飛び火しやすくなっていたのではないでしょうか。そうなると、もうすでに、この安保問題を論議すること自体が、感情のもつれを生み出しやすく、危険な「議題」になってきているかもしれないので、今後は、より一層、慎重な発言が私たちビジネスマンには求められるかもしれません。

 私自身、このブログ記事を書くのに、都合、3時間ぐらいかけて、さらにアップするかどうか悩みに悩んで、1週間ぐらいかけて、ようやくFacebookにあげました。改めて、思想を多くの人に伝えることは、難しいことなんだなと思った次第です。だから、なおさら、友達とかに「君も安保についてSNSで意見を交わそうぜ!」とは、言えなかったりします。だって、「自分の意見を不特定多数の人に伝える」という作業は、とても労力がかかって、大変なことですから。仕事上のリスクだって伴います。

 ということで、今回の安保法案の問題で、最後までまったく声をあげなかったみなさん。

 僕は、みなさんが一番、日本のことを真剣に考えていたのではないかと思っています。職場や友達の間で、対人関係や仕事に差し支えのない範囲でしっかり話し合い、新聞やテレビを見てしっかり考えて、それなりに答えをしっかり出していると思います。相手のことを考えて、むやみに公の場で発言をせず、ぐっと気持ちを抑えてきた人も多いと思います。そういうサイレントマジョリティーが多い日本は、まだまだ捨てたもんじゃないなと信じたい、今日この頃です。

著者/竹内謙礼

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